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修武館の歴史
修武館の誕生
徳川家康の時代。
慶長17年(1612年)。
小西家が伊丹の地で清酒業を本業とするようになりました。
小西家は代々当主を新右衞門と名のり、
新右衞門宗吾、この人を始考(初代)としております。
次考(二代)の新右衞門宗宅が江戸へ酒樽を運ぶ途中、
雪をいただいた富士山を眺めてその気高さに感動したことから、
小西家醸造のお酒に「白雪」と名づけられました。
四考(四代)霜巴の頃には伊丹はずいぶん繁栄し、
丹醸の町として有名になったばかりでなく、文化の町としても発展し、
諸国の文化人たちがしきりに伊丹を訪れた。
四考 霜巴は、井原西鶴、松尾芭蕉、近松門左衛門たちと
親交を結んでいたとされています。
伊丹とその近隣11村を合わせて呼ばれる伊丹郷町。
元禄10年(1697年)。
伊丹郷町に「惣宿老制度」が設けられ、
四考(四代)霜巴が惣宿老の1人として役目を仰せつかって以来、
代々つとめてきた小西家は、
七考(七代)宗脩(むねなが)のとき、
小西家の当主がただ1人で伊丹郷町の惣宿老をつとめるようになった。
七考 宗脩は、政治や経済ばかりではなく
丹醸で栄える伊丹郷町の治安も守らなければならないという想いから
天明6年(1786年)。
徳川家治の時代に、領主の近衛家に請願して私設の道場をこしらえ、
浪人や剣術を習いたい者たちへ開放し、修行をおこなったとされる。
「地域社会の秩序安定に尽す」
伊丹郷町はお公家さまの領地で、武士の統治するところではない、
そんな伊丹郷町の自衛―― これが修武館の始まりです。
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存続と改名
明治維新。
明治2年(1869年)。
小西家では、施設を一般公開するとともに、
師範を招いてますます武道の発展に寄与しました。
明冶4年(1871)。
廃藩置県で武士が禄を離れ、
武士の脱刀勝手たるべき事、という脱刀令もまた同じ年。
武での生計を成り立たせるためには――
明治6年(1873年)。
直心影流の榊原鍵吉が旧旗本有志の連名で
「官許によって撃剣会を催したい」という願書を出した。
脱刀随意の令下りしより剣道とみに衰へ、府下有名の剣客自然おちぶれし……
と、生活の困窮を訴えている。
修武館沿革にも当時のことがこう記されております。
明治維新後、武術の衰微により、
多年に亘り武道を以て人々の師表に立ちたる人々が最も悲境にありし時、
これらの人々を扶養援助すると共に、明治7年揚武会を起し、
剣術のほか柔術、薙刀、槍術、杖術、水泳並びに漢学者を招いて
一般子弟の教育を図った。
後に撃剣興行は、東京だけではなく、
横浜、名古屋、大阪、九州(久留米)、四国(高知)
などでも行なわれた。
明治9年(1876年)。
廃刀令。
竹刀の音をたてるのさえ世にはばかるという時代になりました。
京都では、撃剣の稽古をする者は国事犯の嫌疑者だ、と
知事が布告して、公然と剣術を禁止されております。
その頃、伊丹の小西家では――
おおっぴらに各種武道の先生がたを招いて稽古をしていました。
長屋には暮らしに困窮なさった先生がたが多く訪ねて来られ、
短くても1ヶ月、それ以上に及ぶのが普通とされる期間
逗留なさって稽古されました。
明治18年(1885年)。
この頃当主は、十一考(十一代)新右衞門業茂(ぎょうも)。
武道奨励、学問芸能の奨励の文武両道は
単に奨励するばかりではなく、自らもまた両道に堪能とされる中、
揚武会の発足、長屋建造を見てもお分かりの通り、
小西家代々の当主の中で、いちばん武道奨励に熱心だったとされます。
この揚武会を現在の「修武館」と改名したのも業茂。
修武館では自らが初代館長におさまっています。
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修武館を後世に残す
時を越え――
昭和15年(1940年)。
十二考(十二代)小西新右衞門業精の意思には
修武館を財団法人に、というものがあった。
小西家代々の当主が武道をやるのであればこのままでもいいが、
テニスが好き野球がいい、という者もいずれはあらわれてこよう、
そうなっては修武館の存続があやうい……
だから今の内に、財団法人にしておこう
このことからも業精がいかに武道と修武館を愛していたか、を
よく物語っています。
業精の想い、財団法人化は、
昭和17年(1942年)に正式に認定されました。
そこで大阪府警の剣道師範をなさっていた
越川秀之介先生を修武館の師範にお招きしております。
しかし時が重なるこの頃。
日本は太平洋戦争に突入しており、次第に戦局が逼迫。
この伊丹の地も空襲のおそれが出てきました。
大きな構えの屋敷は一度空襲にあって焼夷弾でも浴びたら延焼をふせぎようがない。
そうした疎開の意味から――
昭和19年(1944年)。
古い道場は取り壊しとなった。
まもなく終戦を迎えるも武道には不遇の時代になりましたが、
昭和25年(1950年)11月に修武館を再建しました。
剣道は一般では再開されていない頃。
「戦後、最初の道場再建だった」と周りの声を伝えられております。
この時、200年に及ぶ修武館の伝統を絶やすことなく引き継ぐことができ
また、今日も維持していることを誇りに思います。
【参考文献】
〈聞き書き剣道史〉伊丹「修武館」二百年の歴史をいまだに維持する話
故 小西 静子 (全日本なぎなた連盟会長) 談
構成/ 石神 卓馬
http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/konishibunko/budou/kendou/kikigaki_01.html
(2011年05月09日アクセス)
【関連文献】
白雪の明治・大正・昭和 第10章 「生活即武道」を実践に移す
http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/konishibunko/shirayuki_MTS/MTS10.html
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