修武館沿革
HISTORY
修武館摘要
『修武館武道摘要』
- 我が修武館の武道は、日本人固有の純粋で美しい心身を鍛錬するためのものであり、無意味に技を競い名前を上げることで自己の技量と誤解してはならない。
- その武道は偽り飾らないのが本分である。故に道場に立ち刀槍を手にして初めて武道になる訳ではなく、日常の行動全てから武道の心が離れてはならない。目上の人に対する尊敬の心を持たず、親に孝行を尽くさず、朋友に信じてもらえない人間に武道はあり得ない。常に誠実であり心豊かである人を武道の達人とする。
- 武道を志す者は常日頃から無欲を通し物事にこだわってはならない。欲があれば気持ちが阻まれ、気持ちが阻まれば刀槍の運びが鈍るため勝負にとって利はない。
昭和十八年四月
修武館館長 小西業精の見識
修武館のはじまり
修武館は天明6年、伊丹の地が寛文元年近衛家領となり、代々惣宿老として政治的にも経済的にも重要な役割を果たしてきた小西家が、伊丹郷町の治安と秩序の維持を目的とし、創設した私設道場がそのはじまりです。
明治2年、小西家第11代業茂により、その施設を一般に公開して武徳涵養を志しました。明治維新後、武術は衰微しましたが、明治7年には揚武会を興し剣術のほか、柔術、薙刀、槍術、杖術、水泳並び漢学者を招いて一般子弟の教育を図りました。明治18年には館名を揚武会から修武館と現在の名称に改め、業茂自ら初代館長となり、益々武道の振興に努めました。
明治39年、業茂館長の逝去によりその遺志を継承し2代館長となった業精は、昭和15年には永久に存続させるべく館の組織を財団法人化、その後、第二次世界大戦中の昭和18年4月、業精館長は『修武館武道摘要』を掲げます。
平成23年4月、兵庫県の認定を受け、公益財団法人修武館としてあらたな一歩を踏み出しました。
日本古来の伝統文化である剣道・なぎなた・居合道の基本を守り、特に「礼に始まり礼に終わる」と言われる武道の礼法を重んじる指導理念は『修武館武道摘要』として現在も受け継がれています。
修武館沿革
元号 (西暦) |
修武館のできごと | 師範 |
明治18年 (1885) |
初代 小西新右衞門(業茂) 業茂は、私塾として一般に公開されていた「揚武会」を「修武館」と改め、初代館長となる。 |
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明治26年 (1893) |
富山圓(その後範士)を剣道初代師範として正式に招聘する。 | 富山圓 |
明治34年 (1901) |
天道流十四代宗家 美田村顕教を師範として正式に招聘する。 | 美田村 顕教 |
1月4日「修武館初會式」が開催される。 | ||
明治38年 (1905) |
閑院宮殿下の御台臨を仰ぐ。 | |
明治39年 (1906) |
二代館長 小西新右衞門(業精) 初代業茂館長亡き後、業精が二代館長を継承する |
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明治41年 (1908) |
当時慶応義塾の師範をしていた真貝忠篤範士を師範に迎える。 | 真貝忠篤 |
この頃、「修武館奥之形」が各流儀より一本ずつ取り入れ五本の形が制定される。 | ||
大正5年 (1916) |
大日本武徳会の講習生美田村邦彦教士を剣道師範に、大日本武徳会薙刀術助教授の美田村千代教士を薙刀師範に迎える。 | 美田村邦彦 美田村 千代 |
昭和9年 (1934) |
真貝忠篤師範の後継者で子息の真貝寅太郎範士を師範に迎える。 | 真貝寅太郎 |
昭和17年 (1942) |
財団法人修武館設立。 | |
業精館長は、館の恒久的存続を図るため財団法人の認可を受け、組織強化と指導面の充実により修武館の基礎が築かれる。 | ||
大阪府警察本部剣道主席師範の越川秀之介範士を師範に迎える。 | 越川秀之介 | |
昭和18年 (1943) |
業精館長は「修武館武道摘要」を館頭に掲げ、門弟達に教示する。 | |
梨本宮殿下の御台臨を仰ぐ。 | ||
昭和19年 (1944) |
戦局が逼迫し、伊丹にも空襲の恐れが高まり強制疎開により、道場取り壊しの止むなきに至る。 | |
昭和22年 (1947) |
三代館長 小西新右衞門(業雅) 業精館長亡き後、業雅が三代館長を継承する。 |
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昭和29年 (1954) |
四代館長 小西静子 業雅館長亡き後、小西静子が四代館長を継承する。 |
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兵庫県警察本部剣道師範の村山慶佑教士を師範に迎える。 | 村山慶佑 | |
昭和35年 (1960) |
五代館長 小西輝也(後の業輝) 小西静子館長の引退を受け、小西輝也(後に新右衞門を襲名)が五代館長を継承する。 |
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「大日本武徳会薙刀教員養成所」第一期卒業の徳永千代子教士を師範に迎える。 | 徳永 千代子 | |
昭和37年 (1962) |
武道の本質に基づいた青少年の健全育成の重要性を痛感した小西館長は、修武館を現在の場に新築、「新築記念演武大会」を開催する。 | |
昭和39年 (1964) |
修武館居合道部が発足し、庭田義穂教士が指導にあたる。 | 庭田義穂 |
昭和45年 (1970) |
村山師範の熊本県警本部剣道師範就任により兵庫県警本部剣道師範の鶴丸寿一教士を師範に迎える。 | 鶴丸寿一 |
昭和46年 (1971) |
修武館主催で西宮市立体育館において「近畿少年剣道錬成大会」を開催される。 | |
越川秀之介師範亡き後、松本敏夫範士を師範に迎える。 | 松本敏夫 | |
天道流十六代宗家美田村武子を師範に迎える。 | 美田村 武子 | |
昭和53年 (1978) |
大日本武徳会薙刀技術教員養成所第一期卒業の矢野恒範士を師範に迎える。 | 矢野 恒 |
昭和56年 (1981) |
修武館友の会が発足する。 | |
昭和61年 (1986) |
村山慶佑範士が九州管区警察学校退任後、修武館剣道師範に帰任する。 | (村山慶佑) |
平成元年 (1989) |
大日本武徳会薙刀教員養成所第四期生、国際武道大学なぎなた部師範の吉田定子範士を師範に迎える。 | 吉田 定子 |
平成14年 (2002) |
兵庫県警察本部 剣道主席師範の安倍尚志教士を師範に迎える | 安倍 尚志 |
平成15年 (2003) |
大日本武徳会薙刀教員養成所第九期生卒業の船原静江範士を師範に迎える | 船原 静江 |
平成20年 (2008) |
近藤健一教士を居合道師範に迎える | 近藤健一 |
平成22年 (2010) |
国際武道大学、聖心女子大学非常勤講師の木村恭子教士を師範に迎える。 | 木村 恭子 |
平成23年 (2011) |
兵庫県より公益財団法人の移行認定を受け、公益財団法人修武館となる。 | |
平成25年 (2013) |
木村恭子なぎなた師範が、天道流十七代宗家を故美田村武子より継承する。 | |
平成30年 (2018) |
六代館長 木村 恭子 業輝館長亡き後、木村恭子が六代館長を継承する。 |
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令和2年 (2020) |
文化庁が認定する日本遺産『「伊丹諸白」と「灘の生一本」下り酒が生んだ銘醸地、伊丹と灘五郷』において、「なぎなた(修武館)」が構成文化財の一つとなる。 | |
令和4年 (2022) |
神吉芳樹六段を居合道師範に迎える | 神吉芳樹 |
令和6年 (2024) |
安倍尚志師範が名誉師範に就任する | 安倍尚志(名誉師範) |
滋賀大学名誉教授、村山勤治教士を剣道師範に迎える | 村山勤治 |